みどりのラクダ
生田 きよみ


 コブシが咲きました。桜が咲きました。レンギョウもラッパスイセンもムスカリも。みん なみんな咲いて、あたり一面、こんなに春色なのに。景色が遠くに見えます。ねずみ色の もやがかかって見えます。
 来週は、中学の入学式。新しい生活が始まるうれしい四月なのに。アーメド、あなたのこ とが心配で心配でたまりません。
 あたしの机の上には、大理石のラクダがいます。そう、あなたがイラクへ出発する日、あ なたがくれたラクダです。
 高さ15センチ、体長7センチのひとこぶラクダ。うすいみどり色で左足の付け根から、こ ぶにかけて、ひとすじの茶色のしま。ちいさな黒い目はほほえんでいるようにやさしい……。

 商社マンの父について、あたしたち家族がパキスタンのカラチへ行ったのは2年前。びっくり するような大きな家で、5人の人が出迎えてくれました。あなたのパパは運転手さん。ママは 料理を作ってくれる人。他に庭掃除をしてくれる人、洗濯や掃除をしてくれる人、買物をして くれる人がいた。日本では、考えられないようなぜいたくな暮らしでした。
 大人たちのうしろで、あなたは、まっすぐなつよい目であたしたち家族を見ていましたね。 日本ではあんなふうに見られたことがないので、ちょっとたじろぎました。同じ5年生くらい なのに、生意気って思ってしまったのです。
 あなたの家はあたしの家と同じ敷地にありましたね。あなたには、二人の弟がいました。2歳 のアジドのかわいいこと。ひとなつっこい大きな瞳。一人っ子のあたしは、弟ができたようで うれしかった。
 あたしは、日本人学校へ。あなたは現地の学校へ行っていましたね。ほかの弟たちとちがって、 あなたはなかなかあたしにうちとけようとしなかったわ。
 母は、日本では家事全部をこなしていた。だけどこちらへきたら、仕事がほとんどなくなったの。 それで思いついたのが、日本の遊びや歌、日本語を教えること。あなたのパパはイラク人で、ママ はパキスタン人でした。パパは日本語が少し話せたので、あなたも少ししゃべれた。だけど、 あなたは、一生懸命勉強して、みるみるうまくなったわ。
 父母は休日になると、あたしとあなたを遊びにつれていってくれました。5月から7月はすごい 暑さだったけれど、カラチは海洋性気候のせいか、わりと過ごすしやすかった。
 父と母、そしてあなたと行ったクリフトンビーチ、覚えてる?ああ、楽しかったなあ。アラビア 海から吹く涼しい風の中、砂丘でラクダにのったわね。あなたは、はにかんだようにあたしと同 じラクダにのった。あれから急速にあたしたちは仲良くなりましたね。
 事件がおこったのは、去年の4月でした。母のカメラがなくなったのです。母は自分がどこかへ 置き忘れてきたのだといいはりました。その時、アーメドのパパがきいていました。
 アーメドのパパは、使用人を集めて問いただしました。そしたら、庭掃除のムハマンダがいった。 アーメドが盗むのを見たと。アーメドのパパはきつく問い詰めた。だけど、アーメドは 「盗んでなんかない」きっぱりといった。
 父と母はアーメドを信じた。もちろん、あたしも。その後、家の雰囲気が変わった。もう、アーメドは 日本語の勉強にこなかった。チビさんのアジドもあたしに遊んでといわなくなった。使用人たちの ひそひそ声ばかりがきこえてきた。
 ついに、アーメドのパパが、父にいいました。
「他の使用人の目が体中につきささります。わたしたち、お金はありません。ですが、盗みをするような ことは、決していたしません。息子は心のまっすぐな子供です。誇り高いイラク人の血が流れています。 これ以上、アーメドを苦しめたくありません。これを機に故国、イラクへ帰ろうと思います。運転手をし ながら、雑貨屋でもはじめようとかと思っています」
 どんなにひきとめてもむだだった。あなたたち家族の決心はかたかった。
 アーメドたちがイラクに旅立つ日。あたしたちは、門の外まで見送りました。
「アーメド、いつか、日本においで」
「そうよ、待ってるわ。勉強つづけてね」
 父と母がいうと、あなたは、晴れ晴れとした顔でわらってくれたわね。あたしは、ただただ悲しくてなん にもいえなかった。アーメドがポケットから紙につつんだものをとりだして、あたしにさしだした。
「ケイ、元気で。これ、おこづかいをためてかったんだよ。きっと日本にいくから」
 あたしは、なみだでかすんだ目をむけた。アーメドのことが好き。すごく好き。はじめて気がついた。
 それから、半年後、父の転勤であたしたちはまた日本にもどった。あれから、ずっと、文通を続けていますね。
アーメド、あなたたちがすんでいるバグダット。ほんとうに恐ろしいことになっています。言葉でいいあらわ せないくらい不安です。空から爆弾がおちてくる。一瞬のうちに建物が破壊され、一面、火の海。たくさんの 人々が死んでいく。いいえ、殺されていく。なんにもしてないのに。テレビや新聞を見るのがこわい。でも、 あたしは、見る。見ておかなければと思うから。これが、戦争というものだよ、と父も母もいうから。
 あなたの住んでいる、バグダドでは、映像に写らない何千倍もの悲惨な光景が毎日くりかえされていることでしょう。
病院のベッドで血だらけになって横たわるアジドくらいの小さな子供。死んだ子供を抱きかかえて泣きじゃくる母親。  こんなことが許されていいの? あなたたち子供がどうしてこんな目にあわなくてはいけないの?
 おなかいっぱい食べ、学校へいき、友達と遊んだり勉強したりすること。こんな当り前のことが許されないなんて……。
 それどころか、家を焼かれ、家族を失い、自分だっていつ殺されるかわからない……。
 あなたは、今、恐ろしい恐怖の中にいる。わたしは、いったいなにをしたらいいの。なにができるの。あなたの家族が  無事であるように祈ることしかできないというの? すごく悲しいです。腹立たしいです。
 お願い! 死なないで。生きていて! わたしの好きなアーメド。
 みどりのラクダはわたしの大切な宝物。みどりはやさしい色。そして平和の色。ラクダに毎日祈ります。早く、戦争がおわり、 平和が訪れますようにって。きっと、きっと、ふたたび会えますようにって。

                                   石丸 恵