海の神様
西川 なつみ


 あれは、僕が十三歳になったばかりの夏休みの出来事だった。
 夏休みになると、必ず僕たち家族は、母の故郷のこの町にやってきた。 日本海に面したこの港町で、潮騒に包まれて過ごす数日間を、僕は小さい 頃から楽しみにしている。今年に限って、僕はひとりで、祖母の家を訪れた。 その理由は、僕に歳の離れた弟か妹ができるからである。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

「海斗、自転車、重くなぁい?」
「大丈夫だよ。おばあちゃん」
 僕は、かごに買い物の荷物をのせ、ゆるやかな上り坂を、祖母の後から自転 車を押しながら歩いている。少し汗ばんできた僕の首筋に、海を渡ってきた潮 風が心地よかった。
 母が中学生の頃使っていた自転車は、所々錆び付いてきしむような音をたて ているが、祖母は今でも大切にしている。
「ほんとに大きくなったねぇ。去年の夏休みはまだ、おばあちゃんと同じくら いだったのにねぇ」
 僕の背が伸びた分だけ、祖母の腰はまがってひとまわり小さくなってしまっ たような気がする。
「おばあちゃんは買い物に行く時、いつもこの道を通るの?」
「そうだねぇ。バス通りは危ないし、こっちの道のほうが近いからねぇ」
 海沿いの遊歩道のようなその道は、人ひとりやっと通れるくらいの広さで隣町 まで続いている。
 いつもは祖母ひとり自転車に乗って通るのだろうけれど、今日は僕とふたり、 木漏れ日の中をゆっくりと歩いている。
「お母さんも、朝はこの道を通って中学へ通っていたのよ」
「ふぅーん」
 祖母は、懐かしそうに母の思い出話を始めた。けれど、僕はさっきから、祖母 の話の半分ほどしか耳に届いていない。それは、穏やかな海にたつ不思議なさざ 波のせいである。
 傾きかけた太陽の光をちりばめたような海の中で、そこだけは万華鏡の様に不 思議な輝きを発していた。近づくにつれ、僕の目は、その一点に釘付けになって しまった。
「に・ん・ぎ・ょ……」
「あぁ、あの娘、隣の航さんの妹さんよ。海斗も去年の夏、航さんの舟に乗せて 貰ったでしょ。あの娘、東京で就職してたんだけれどね。去年の暮れに急にお母 さんが亡くなって、こっちに帰ってきたのよ」
 僕は、日にやけて元気そうだったおばさんの顔を思い出していた。
「それにしても、今時めずらしいよねぇ。お母さんの後を継いで海女さんになっ てくれるなんて。航さんと一緒に漁に出ていない時でも、サザエなんか捕りに、 ああしてあの岩場のあたりで潜っているんだから、本当に海が好きなんだねぇ」
 この夏を想いだすたび、目を閉じて浮かんでくるのは、茜色に染まった海の色 と、勢いよく波間に現れ、またすぐに海に消えて行く人魚の様な彼女の姿である。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 二度目に僕が彼女を見かけたのは、航さんの家の庭先である。二階にある僕の 部屋の窓から、洗濯を干す彼女の姿が見えた。庭の木々は朝露に濡れてきらきら と輝いている。彼女のまわりには何故、光が集まってくるのだろう。
 洗濯を干し終えた彼女は、朝日に向かって両手をのばして、気持ち良さそうに 伸びをしている。ちょうど庭に出てきた祖母と目が合い、勢いよく頭をさげ
「おはようございます」
と、元気な声であいさつをかわしている。垣根越しに立ち話を始めた彼女の顔を 近くで見たくて僕は茶の間へ降りて行き、取り立てて用もないのに祖母に声をか けた。
「おばあちゃん」
「あぁ、海斗ちょうどよかった。お隣の夏海さんよ」
「こんにちは、海斗君」
 目をみつめて話す彼女の顔を、まっすぐに見ることができずに、庭に降りた僕 は、うつむきかげんに答えた。
「……こんにちは」
「もうずいぶん前に、一度だけ会ったことあるよね」
「えっ」
 僕は、夏海さんの意外な言葉に、驚いて顔を上げた。
「あらっ、そうだった?」
「そう、海斗君、まだこんなに小さくって、ママの後ろに恥ずかしそうにかくれ てた」
 祖母も思い出したようで、懐かしそうにうなずいていた。
「それが、こんなに大きくなっちゃって」
 夏海さんは、そう言いながら少し背伸びして、僕の頭に手を乗せた。あわてて 一歩下がった瞬間、僕のほほに触れた夏海さんの手は思ったより暖かく、僕はど ぎまぎして、また下を向いてしまった。
 でも、僕はかすかに思い出した。母の後ろから見上げた、おさげ髪の高校生だ った彼女の姿を……

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 その日の夜、祖母は母に電話を入れた。身体の具合をたずねた後、僕のことを 話していた。
「ほんとに、海斗が来てくれて良かったよ。力仕事もたくさんしてくれて、大助 かりよ。ちょっと待って、今かわるから」
「もしもし、海斗。ママがいないと思って、のんびりしてるんでしょ」
「うん、まぁね。赤ちゃんもまだ生まれないみたいだね」
「そうね。後二、三日ってとこかなぁ」
 相変わらず、のんきそうな母の声だった。
「病院に行く前に電話入れるから、そしたらおばあちゃんと一緒に帰ってきてよ」
「うん」
「ねえ、昨日、おばあちゃんと買い物行ったんだって」
「うん、海沿いの道を通ってね」
「その道から小さな鳥居見えなかった?」
「あったよ。あの石の階段の上のでしょ」
「そうそう、あの鳥居の向こうにお社があってね。その後ろにまわると、すごく 見晴らしがいいのよ」
 母は、とても懐かしそうに話し始めた。
「よく一人で海を見に行ったんだ。水平線がきれいに見渡せて、地球はやっぱり まるいんだってわかるわよ。そこがママのお薦めポイントだから、一度行ってみ たら」
「へぇ、行ってみるよ」
「それじゃ、おばあちゃんのことおねがいね。おやすみ」
「うん。おやすみなさい」

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 次の日、僕は一人であの道を通って、祖母に頼まれた買い物に出かけた。自転 車での帰り道、ちょうど鳥居の階段の下に、自転車が一台とめられていた。見上 げると、手を合わせている夏海さんの姿が見えた。
「海斗くん」
 僕に気がついた彼女は、手を振って階段を降りてきた。
「お買い物?」
「はい。夏海さんも?」
「そうよ。いつもこの道を通ってお買い物に行って、帰りに、ここでお参りをし て帰るの」
「お参りですか?」
「そう。兄さんがひとりで漁に出たときはね。無事に帰りますようにってお願い するの。ここの神様は、海の神様で、みんなの無事を祈っていてくださるんです って」
「海の神様?」
「うん。昔ね、漁に出たまま帰らない漁師さんがいて、その奥さんがこのお社の 後ろで、三日三晩火を焚いて待っていたそうなの。三日目の夜、その灯りを頼り に、その漁師さんはここまで帰って来れたっていうお話があるんだって」
「へぇ」
「でも、もともとは縁結びの神様らしいの。だから仲のいい二人を引き離したり しなかったんだよね」
 僕は鳥居の方に目を移した。
「母さんが、ここの眺めがすばらしいって言ってました」
「そうなのよ。晴れた日は特に夕陽がきれいなんだよ。見てこようか」
 僕は黙ってうなづいた。そして、彼女の後から階段を登って行った。
 小さな鳥居をくぐり、夏海さんはお社に向かい、もう一度手を合わせ、それか ら右手の細い道をぬけた。僕も慌てて手を合わせ、彼女の後に続いた。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 あんなに大きな太陽を見たのは、生まれて初めてだった。夕陽が少しずつ、海 に融けていく。そんな感じがした。
「きれいでしょ」
「……」
 僕は黙ってうなづいた。
「海斗君、十三歳だったよね」
「はい」
「海斗君の年頃には、私もう母さんの手伝いをしてたんだよ。舟にはまだ乗せて 貰えなかったけど、あの辺りでよく潜ってたんだ」
 夏海さんが指さす先には、初めて彼女を見かけたあの岩場が、波しぶきに洗わ れていた。
「ここの海に潜るとね、母さんがすぐそばにいてくれる気がするんだ」
 彼女の横顔は、夕陽ではなく海の遥かなたを見ているような気がした。
「ねえ、あの岩の横の方に洞くつがみえるでしょ?」
「あっ、ほんとだ」
「昔ね、とても親孝行な娘さんがいてね。病気のお母さんの為に、毎日百個のは まぐりを捕ってお薬代にしていたんだって。その日はどうしても最後の一個が捕 れなくて、あの洞くつに潜ったんだって。あの洞くつの中は潮の流れが渦巻いて いて、とても危険なのに」
「その娘さんは、どうなったの?」
「そのまま帰らなかったんだって……。今でもその娘の魂は、あの洞くつにい て、最後の一個を誰にも捕られないように守ってるんだって」
 僕は、洞くつから目が離せなくなっていた。
「だから絶対に、あの洞くつの中だけは入っていけないって」
「……」
「子供の頃、母さんに何度も聞かされた……昔話」
 そう言って、夏海さんは振り返り、やさしくほほ笑んだ。僕は息をすることを 忘れていたように、フーッと大きなため息をついた。
 潮風に乗って、夏海さんの髪の香りが、僕のもとに届いた時、あの夕陽のよう に、何かが僕の心にも融けていった。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 あくる日、僕は一人で自転車に乗り、あの場所へ行った。岬の先端あたりで漁 をする航さんの舟が、ここからは見渡すことができた。僕の目的は夏海さんの姿 を見ていたい。ただそれだけだった。
 僕は飽きずに彼女の姿を、目で追っていた。力強く水面を蹴って海の中へ消え て行く彼女。太陽に輝いている波たちまでも、一緒に海の中に消えて行く。まる で夏海さんの後を追うように。
 潜る瞬間、僕も同時に息をのむ。僕は苦しくなり、思いっきり空気を吸い込ん だ。だけど彼女は浮かんでこない。心配になり、僕が立ち上がった瞬間、勢いよ く波間に現れた彼女の顔。とても嬉しそうに、航さんの何か手渡している。
 やっぱり彼女は人魚かもしれない……。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 その日の夕方、母から電話が入った。今から父と病院に行くと。多分生まれる のは、明日の明け方だろうと言うので、僕と祖母は朝一番の電車で行くことにし た。
 出かける朝、祖母は隣の夏海さんの家に顔を出して、留守の間のこと頼んでい た。去年の暮れに、お母さんが亡くなった後は、祖母のことをことさら慕ってく れていた。
 門の所まで見送りに出てくれた夏海さんは
「海斗君、また夏休みに遊びにおいで。来年は弟さんか妹さんが一緒だね。元気 でね」
 いつものように、目を見つめて話す彼女に、僕は何も答えられず、黙ってうな づいた。
 夏海さんは僕たちが見えなくなるまで、見送ってくれていた。
 曲がり角で、祖母と僕はもう一度立ち止まり、振り返った。元気よく手を振っ てくれた。
 彼女に、祖母は頭を下げ、僕は肩ほどに手を上げ微かに振った。それが、僕に とって精一杯の気持ちだった。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 僕たちが、母の病院に着いたのは、昼過ぎだった。予定日を過ぎても、まだ生 まれてこない赤ちゃんを
「本当にのんびりした子だね。誰に似たのかしら」
と、家に着いた祖母は、こちらに無事着いた事を彼女に知らせようと電話をした が、誰も出ないようだった。
「おかしいわね。もう、夕飯の時間なのに、誰もいないなんて」
「どこかへ出かけたんだよ。きっと」
 僕はそう答えたけれど、祖母と同じように胸騒ぎがしてならなかった。
 祖母と簡単に夕食を済ませ、後片付けをしていると電話がなった。
「もしもし、海斗。生まれたよ。かわいい女の子だ。妹だぞ」
 父の声は、弾んでいた。
「母さんも大丈夫?」
「あぁ。二人とも元気だ」
 僕たちはすぐに出かける支度をしたけれど、祖母がもう一度だけ彼女の家に電 話して、無事に妹が生まれた事を知らせたいと言うので、その後で病院に行くこ とにした。
 祖母がダイヤルした後、呼び出し音が長く続いているようだった。
「あっ、航さん、夜分遅くごめんなさいね。赤ちゃん生まれたの。女の子だった の。夏海さんがとっても心配していてくれたから、すぐに知らせようと思って。 どうかしたの?」
 電話の向こうで航さんが、何か言った後、祖母の顔色が変わった。
「しっかりしなさい。まだ、そうと決まったわけじゃないでしょ」
 航さんにそう言って受話器を置いた祖母の手は、震えていた。
「夏海さんが帰ってこないって」
 僕は、自分の耳を疑った。
「どうして」
「夕方、一人で海に出たまま帰らないそうなの。今みんなで手分けして捜索して いるって」
 僕たちは、その場に座り込んでしまった。しばらくの間、祖母も僕も動くこと ができなかった。
 先に口を開いたのは、祖母だった。
「とにかく、お母さんが待ってるから、病院に行きましょう。それから、この事 はお母さんには、内緒にね。心配かけるだけだから」
 僕はもう何も考えられなかった。ただ心の中で
(嘘だ。嘘に決まっている)
と、繰り返し叫んでいた。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 次の朝早く、航さんから電話が入った。夏海さんが見つかったと。
 冷たい身体となって……。
 祖母は航さんに、すぐ帰るから夏海さんに付いていてあげなさいと告げ、電話 を切った。
「海斗、お母さんのこと、お願いね。おばあちゃんいてあげたいけど、夏海さん の最後に会いたいから、帰るね」
「うん」
 頷きながら心の中でもう一人の自分が呟いた。
(僕だってもう一度夏海さんに会いたい)
「お母さんには、急用で帰るけど、退院までには、もう一度来るから、そう伝え てね」
 祖母を駅まで送り、僕はその足で病院に向かった。父はもう仕事に出かけ、母 の横の小さなベッドには、僕の妹が眠っていた。
 僕は祖母の伝言を母に伝えた。母は残念そうに、妹の顔を覗き込んで、こう言 った。
「なっちゃん。おばあちゃん急用だって」
「えっ、なっちゃん?」
 僕は母に聞き返した。
「そうだ。海斗にまだ言ってなかったよね。名前決まったのよ。あれ」
 母が指差した先には、父の字で命名と書かれた色紙が置かれていた。僕の心臓 は、打ち寄せる波の様に高鳴り出した。
「な・つ・み」
「そう、良い名前でしょ。夏海。海斗と同じように海っていう字を付けたかった のよ」
 僕は妹のほほにそっと触れてみた。ほんのり暖かく、僕のほほにかすかに触れ た彼女の手のぬくもりを思い出させた。
 目を閉じると、あの茜色の海の中で、岩の上にたたずみ、夕陽を見つめる夏海 さんの姿が浮かんだ。
 でもそれは、僕がこの夏出逢った夏海さんではなく、おさげ髪の彼女で、それ を見ているのは、母に手を引かれながらあの海沿いの道を散歩している、小学校 にあがったばかりの僕だった。
 そして、幼い僕は、つぶやいた。
「に・ん・ぎ・ょ……」